大衆演劇あらかると

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序、「あらかると」について
 以下の十五篇は、平成五年に「三吉演芸場だより」に特別寄稿された大衆演劇評論家、橋本正樹さんの文章にわずかに手を加えたものです。
 十章につきましては、原稿散逸の為省かせていただきました。ご了承ください。

 

一、ファミリー劇団
 昨今、家族がそろって同じ職場で同じ仕事につくことは珍しくなってきた。ところが大衆演劇界では、それこそ家族の強い絆が拠り所の公演活動をしているのである。
 たとえば三十歳の中堅座長の率いる一座があるなら、妻は女優、子供達は子役、弟とその妻、あるいは妹とその夫、さらには両親も舞台に立つという具合なのだ。全国に約百十ある劇団の構成は、いずれも似たり寄ったり。現在の一座の平均座員は十三名だから、座長の親族が半数を占めることになる.
 顔色ひとつで気心が通じあい、お互いに無理を言いあえる家族が軸なので、一座の運営はスムーズだ。そして一年三六五日、文字通り寝食をともにする座員達も、家族同然の存在といえる。舞台と楽屋の苦労を分かち合いながら、全員が強力な信頼関係をはぐくむ。こうした結果が約三時間半の、ハードな舞台を連日つくりあげる源になっている。

 

二、座長
 大衆演劇の幕内にとびこんだ者なら、一度はなりたいと夢見るのが座長である。たとえ十数名の一座であっても、一国一城の主。長たる者の気苦労がつきまとおうとも、大看板をはる魅力は、何にもまして大きいようだ。
 だが、実力と人気を兼ね備えているからといって、必ずしも座長になれるとは限らない。まず統率力。莫大な資金が要求され、心身ともにタフネスでなければつとまらない。一座を支える最大のスターとして大車輪で舞台に立ちながら、毎日かわるプログラムの脚本、演出、殺陣、舞踊の振付、音楽の選曲をこなすのである。さらに多くの座長がそうだが、太夫元(総責任者)を兼ねると、巡業先の決定、給料の支払いなど、運営の全てをやりくりすることになる。
 芸が達者なだけの“役者バカ”では、現在の大衆演劇の座長はつとまらないし、なっても長くは一座を維持できない。

 

三、子役
 大衆演劇の人気の大半を支えるのはもちろん座長だが、その人気を時として食ってしまう強力なライバルが一座にいる。ただ舞台に立つだけで、拍手と祝儀をかっさらう子役である。
 子役とは、一般的に五歳から十二歳までの児童俳優を指すが、大衆演劇の場合、おしめのとれない幼児が舞台に立つことも珍しくない。主に座長の子供が、芝居や舞踊、歌謡ショウに否応なしにかりだされるわけだ。どの一座でも、涙をしぼりとる人情劇はドル箱的存在で、その芝居に達者な子役がいるかいないかが観客動員数を左右する。昔はとくに、名子役を“米ビツ”とよんで大事にしたという。小学生になると就学証明書を持って転校を繰り返し、「役者の子」といじめられる悲哀を味わう。これは今も昔もかわらない。(注:いじめとまでいかずとも、特別視されてしまうのは仕方がないようだ。by jin)
 現在大活躍している座長の大半は、“腹の中からの役者”で、子役あがりである。

 

四、口立て稽古
 大衆演劇の芝居には、台本がない。こう書くと誰もが驚くに違いない。どう頭をひねっても、台本のない芝居づくりなど考えられない。ところが口立てという、旅役者独特の、信じがたい稽古があるのだ。
 昼夜興行の常打ち小屋の場合だと、昼と夜の部の間の休憩時間か、終演後に、全座員が舞台か楽屋に集合し、演出の座長を中心に車座になる。座員達の手にはノートかテープレコーダー。まず配役が決められ、氏名、年齢、職業、性格の確認。それから座長は、登場人物の台詞、仕草はもとより、上、下手の出入りを、照明係、音響係(役者が兼ねる)への指示も出しながら、猛スピードで喋る。これを受けて座員はノートに走り書きしたりして、約二十分で稽古は終了。これだけで翌日か、早ければ二時間後に舞台にかけるのである。
 この特異な口立ては、読み書きができなかった江戸時代の歌舞伎役者の名残だという。

 

五、乗り込み
 旅役者に何が一番つらいかと聞いたら、即座に乗り込み(移動)と百人が百人、そう答える。巡業に明け暮れる彼らにとって、乗り込みは宿命に違いないが、重労働でありすぎる。ざっと、こんなふうなのだ。
 千秋楽の舞台がはねるや、座長の陣頭指揮で舞台化粧のまま荷造りにかかる。荷物の内訳は、かつら、鏡台、タンスや、刀、槍、まといの小道具、大道具、照明器材、音響器材、テレビ、冷蔵庫、洗濯機に炊事用具一式などだが、約四割は衣装が占める。これら大小様々な荷物を背負って大型トラックに積み込む。想像以上のしんどさで、三往復する頃には息がきれる。ましてや雨の日など泣くに泣けない。
 そして次の公演場所へ荷物を運び、整理を全て終えるのが明け方。役者が最も大切にする初日を、こうして迎えざるを得ないのも、旅役者ゆえの宿命なのだろう。

 

六、化粧
 「塗ってこそ、飯のタネ」とか「どんな舞台でも、化粧の手抜きを覚えたら芸はのびない」と、幕内の教えがあるくらい、旅役者のメーキャップは濃い。たっぷりと塗りこみ、目許と鼻筋を特に強調するので、毒々しくさえうつる。その舞台顔と素顔とが見分けられるようになれば、ファンとして一人前だ。
 大衆演劇のトレードマークともいえる厚化粧だが、一座特有の舞台顔がある。役者達は芸と同時に、それぞれの化粧の個性を競い合うが、座長にどことなく似てしまうのだ。どの役者も同じように見えるようでは、ファンとしては半人前。
 化粧はとにかく早い。羽二重をぎゅっとしめて地塗りし、目、眉、鼻、唇などの順に顔を仕上げ、かつらを付けるまでが約七分。その気なら三分でも可能だという。
 早飯、早風呂とならんで、早化粧も旅役者にとっては、芸の内なのだろう。

 

七、常打ち小屋
 平成四年現在、全国の常打ち小屋は、東京二、神奈川二、大阪5、兵庫三、岡山一、広島二、愛媛一、福岡三、熊本一の計二十館である。もっとも長い歴史を有するのが、昭和五年開館の三吉演芸場で、昭和五十年以降に十四館が閉館している。
 劇団数は百十だから、八割強がヘルスセンターや健康ランドで公演することになるが、役者達は本心では通称“ハコ打ち”、常打ち小屋での興行を強く望んでいる。温泉のついでに観劇するヘルスセンターなどと異なり、芸一本での真剣勝負は、彼らを奮い立たせるし、またファンからの祝儀も格段と多くなるのだ。
 しかも実際、ハコ打ちの多い一座の若手は、急速に腕をあげる。収容人員は平均2百名で、舞台整備は必ずしも万全とは言いがたいが、旅役者にとっては檜舞台ということになる。
 常打ち小屋の増減は、とりも直さず、大衆演劇界の消長のバロメーターtといえるようだ。

 

八、口上
 芝居も舞踊・歌謡ショウも日替りでプログラムを組む常打ち小屋での、翌日の演目の予告は、大衆演劇ならではの、口上という方法がとられている。多くの一座は、芝居が終演し、ショウの準備にかかる休憩時間に行う。形式は様々だが、集約すると・・・・・。
 どどん、どんどんと太鼓が響き、「とざい、東西」の掛け声とともに、座長あるいは花形幹部が幕前に進み出て正座する。まずは「一段高い舞台より失礼とは存じますが、心は皆様の下座にくだりまして、」と来場への謝辞に始まり、今終わったばかりの舞台への感想を聞きながら、頃合を見計らって、翌日の演目の披露にはいる。その内容がいかに素晴らしいかを簡潔にしかも面白おかしく聞かせるのがコツで、「長口上は時間の妨げ、」とことわって挨拶を終える。この口上が、一事が万事で、一生懸命にやる一座は、たくさんの観客を集めている。

 

九、女形
 昭和四十年代にはどん底にあえいでいた大衆演劇界が、急速に注目されるようになったいくつかの要因の一つに、梅沢富美男に代表される、女形芸があった。
 男が女を、もしくは女が男を演じる形式は、虚と実をおりなす芝居の世界では、古くから確立されていた。男まさりの壮烈な立ち回りで一世を風靡した女剣劇、宝塚の“男形”がそうであり、その逆の、歌舞伎の女形は多くの人々を魅了してきた。その歌舞伎から派生してきた大衆演劇だから、変身の極みというべき女形を演じて、不思議はない。
 旅役者はどんな役柄でもこなすことをモットーにしているが、実際、女形を演じるのは大変みたいだ。化粧は入念となり、着付けも結構時間をくう。かつら、衣装類も立役の倍くらい費用がかさむ。しかし彼らは、観客が一番喜び、また鮮烈にアピールできる女形芸を絶対になおざりにはしないのだ。

 

十一、山をあげる
 恩人の危機を救うために、やむにやまれず悪党達を叩っ斬り、道中合羽に三度笠の股旅やくざは、後追いする娘をふりきって、再び旅に出る――こうして芝居がクライマックスを迎えると、花道に立った主人公は、七五調の台詞を朗々と吐きながら、大仰な見得をきる。この大衆演劇特有の、思い入れたっぷりな台詞まわしや所作を、“山をあげる”もしくは“モートルをあげる”という。
 「目をむき、鼻を開いて、お客さんの拍手を奪い取る」と、旅役者達が自負するように、これは、熱と力の演技術に違いない。観客を十分に堪能させるための、サービス精神が強く働いているのだろう。だが一方で、強烈に山をあげる演技は、芝居の妙味に欠け、鼻につく“くさい芝居”と軽蔑されてきた。つまり、大衆演劇=くさい演技だ、と。
 しかし実際、下手な役者には、絶対にくさい芝居ができないのも、また事実である。

 

十二、関東 関西 九州の芸風
 過剰なくらい情感たっぷりに演じきるのが、旅役者の演技の特徴である。一座の芸風は、座長を軸にそれぞれが個性を競い合っているので、無論一様ではない。だが、大衆演劇の三大拠点である関東、関西、九州の芸風を比べると、随所に特色が見えてくる。
 関東は小気味の良い台詞と洒脱な気風の良さを売り物にしているが、舞台全体が大味で活気に乏しい。どんな役柄でも無難にこなし、はんなりした“艶物”を得意とするのが関西だが、小器用すぎてダイナミックさに欠ける。大衆演劇のメッカといわれている九州は、壮烈な立回りの剣劇と、覇気に溢れる熱演型だが、それがかえって災いし、見ていて疲れをおぼえるのが欠点だ。
 関係者の評価を総合すると、芸達者のランクは、九州、関西、関東の順になる。しかし九州の一座が、関東で大当たりするとは限らない。土地の水にあうかは、また別物なのだ。

 

十三、ファン気質
 大衆演劇のファンは、女性が八割を占める。近年若い女性も増えてはいるが、それでも中年以上の女性が圧倒的に多い。そのファンたちだが、ヘルスセンターに行く団体客を除外すると、次の二つに分類される。
 一つは、公演にくる一座を満遍なく見ている常連客だ。小屋の周辺に住む人が多く、芝居通といえる。役者の巧拙を見る目が確かであり、ストーリーに即して主人公の心情を我が事のように受け止めて、泣き、笑い、拍手し、舞台を十分に堪能する。
 常連が舞台そのもののファンであるのに対し、役者個人を応援するのが贔屓客である。劇団を全面的に援助する後援者と、ファンクラブの会員とに分けられるが、いずれにしろ熱狂的な贔屓となると、一座が巡業する先々まで追いかけ、一万円札を貼り付けたりする。
 三吉演芸場は、芝居好きの常連客に支えられている常打ちの小屋だと、僕は見ている。

 

十四、大衆演劇の歴史@
 わが国の演劇がそうであるように、大衆演劇もまた、歌舞伎の強い影響を受けている。いや正確には亜流というべきで、一流劇場で上演される大歌舞伎に対して中歌舞伎ととも呼ばれていた。
 そのルーツである歌舞伎の“血”を薄めつつ、今日の“ごった煮”の味わいの芸風を確立するまでの歴史を、二回に分けてふりかえってみたい。
 明治中期、歌舞伎のパロディーである笑劇や新派物と演目をひろげていった大衆演劇に“節劇”が登場する。歌舞伎の浄瑠璃にかわって浪曲を口演する浪曲劇だ。当時の大衆が愛好した二つの芸能を同時に満足させたのだから、人気を博したのは当然といえる。この節劇は、敗戦直前まで各地でもてはやされた。浪曲にのせて芝居するうちに、おのずと演技は粘っこくなるらしく、旅役者特有の情感たっぷりな芝居は、節劇によって確立したといえる。

 

十五、大衆演劇の歴史A
 ベテラン座長が「大衆演劇のルーツ」という節劇と並行して、大衆の熱狂的な支持をとりつけたのは剣劇だった。
 大正十一年、新国劇の沢田正二郎が確立した壮烈なリアリズムの殺陣は、爆発的な人気を呼び、これに大衆演劇が便乗したのである。明確な勧善懲悪のストーリーを好むファンには、派手な立回りで決着をつけるチャンバラ劇はうってつけで、呼称が“時代人情劇”とかわった現在でも、看板芸にかわりはない。
 一方、芝居の幕間のサービスとして登場したのが舞踊ショウ。さらに役者自身が歌唱する歌謡ショウが加わる。前者は昭和十五年、後者は昭和二十三年頃から始めた一座があるというが、大衆演劇界にショウが定着したのは昭和三十年代後半である。
 歌舞伎から派生した大衆演劇の歴史は、観客本位のサービス精神に徹した、つまりは大衆のための演劇の歴史でもあったわけだ。